2011年6月10日 のアーカイブ

社会福祉論ゼミナール1回生は、6月3日から5日の3日間、宮城県亘理郡山元町坂元中学校区で復興・復旧を支援するボランティア活動に参加してきました。

予備学習としてゼミで、日本国憲法の基本的人権の保障に関する条文、特に憲法第25条の考え方について学び、大震災という危機的生活環境であるからこそ、被災地住民の暮らしは行政の責任において保障されなければならないという原則を確認しあいました。

崩壊しかかったJR常磐線坂元駅陸橋

また今回のボランティアを組織された尼崎医療生活協同組合の方は、学生ボランティアに対して「人間の生命は平等であり、どのような環境であっても、人間の生命は最も大切にされなければならない」、とりわけ「政治は人間の生命を守ることを使命にしなければならない」と強調されました。「社会的不合理を発見する力を身に付け、社会的不合理を解決する方法を学あう」というゼミナールの学習目標を、このボランティア活動で具体的に実践することにしました。

今回のボランティアグループは、学生10名とゼミ担当の山本副学長、医療生協の会員さんが17人、男性が15人、女性が13人(内学生が8人)総勢28人で構成されました。バスを借り切って、大阪―宮城を往復するという強行スケジュールのボランティア活動です。

むなしく立つ駅前の観光看板

4日早朝バスは「JR常磐線坂元駅」に到着しました。「駅前通り」がありません。「駅」には崩壊しかかった陸橋残っているだけです。駅前の観光案内板のみが「荒野」にむなしく立っていました(写真2参照)。また、こどもの名前が記入されたノートとピカチューの人形、家族の写真が、街の一角に掘り出し残してありました。このご家族の無事を祈るばかりです。

この現実を目にした時、「私たちに何ができるのか」「私たちにできる支援って何か」、「何もできないのでは・・・」「もう帰りたい」と悩んでしまいました。

現地には本学の非常勤講師でもある杉山貴士先生が待っておられました。「一人では何もできない」「一人でできるボランティア活動というものを考えないように」、「それは被災地の方々も同じ。みんなの力をあわせたら何ができるのかを考えよう」とアドバイスをしてくださいました。

名前が記されたノート

私たちはAさんという農家の支援にいくことになりました。Aさんの家と周辺の様子を見た時、再び「こんな悲惨な状態…。できることは何もない」と思いました。Aさんの家は建築後2年であり、また周囲の家も新しい家が多く、津波で流されることなく残っていますが、多くの住人が亡くなったということです。住人が居なくなった家屋は震災当時のままでした。Aさんも、自分の家を見た時、「なにも考えることができなかった」「呆然として眺めていただけだ。そんな日が何日も続いた。」と語ってくださいました。すぐに自衛隊員が救援活動をはじめましたが、道路の復旧をはじめとするライフラインの確保が活動の中心であり、また行方不明者の捜索が先行しており、個人の家屋の復旧支援までには至っていません。しばらくしたら住民の姿が見られる家屋にボランティアがやってきて、家の周囲にある瓦礫を出し始めてくれた時、「あっ、一人ではない。家族も残っているし、支援の人もいる」「何を片付けるのかは、住人である私が言わないとみんなが困ると思った」「そのようにして、今日を迎えている」とのことでした。

何ができるのか他のボランティアの人たちと相談し、活動内容を確かめました。私たちにできる支援活動がたくさんありました。家の中に入り込んだ瓦礫は、すでに先に来たボランティアが片付けましたが、床下や天井、屋根裏等には砂や泥が溜まっています。また壁も塩水を含んでしまい、乾きません。最も人手が必要な手仕事=機械を使うことができない手作業で、誰にでもできる仕事=家の中の汚泥だしをすることにしました。畳を上げて、床をはがし、床下の泥をかき出す作業です。また壁をはがしてしまう作業や、屋根裏にもぐり込み、ゴミを取り出す作業、取り出した度やや壁土、ゴミを片付ける作業等、みんなが力を合わせることでできる作業、一人ぼっちでは先が見えなくなるような手作業がたくさんあることに気付きました。

住人が居なくなった家屋

作業開始は9時半、「段取り」を決め、作業を分担したら、どんどん片づけが進みました。こうした作業をしながら、他方で来週かけつけるボランティアのための仕事づくりもはじまりました。学生の中からも3人が家庭訪問をして、それぞれの家庭の要求を聞きだし、ボランティア活動で支援できる要求と、公的に支援すべき要求にわけていきました。この作業は医療生協の職員の方々が中心ですが、復旧・復興支援の内容は、支援する側が決めるのではなく、被災者が決めるべき内容であるということを学びました。Aさんの家屋復旧のための活動内容も同じ手法で決められています。

被災地の暮らしの実態は、日本国憲法が保障する人間らしい暮らしが確保されているとはいえない状態であり、行政責任が果たせているとはいえないものでした。多様なボランティア活動や被災者同士の助け合いが被災地の暮らしを支えていると思いました。特に主たる産業である漁業と農業が壊滅状態であり、加工場を崩壊しており、ほとんどの人々が仕事を失い、現金収入が全くないという世帯がたくさん存在しているということを知りました。社会福祉の時間にも学びましたが、これら失業状態にある人々の仕事の確保・労働の保障が緊急の課題であり、行政はここに力を注ぐべきだと思いました。私たちが取り組んだ復興・復旧のボランティア活動を、アメリカのニューデイル政策のような公的事業として展開し、そこに被災地の人々を雇用すれば、復旧・復興計画づくりにも被災地の人々の声も直接届くし、生活費を保障することもできると思いました。

元の暮らしに戻るまでには、ながい月日を必要とするでしょうが、被災地の人たちを中心にして、支援者が協力・連帯し合って復興活動を展開し、また行政には行政責任をきちんと果たすよう運動しなければならないということを学ぶことができました。機会があれば、もっと多くの仲間を組織して復興支援のボランティア活動に参加したいと思っています。